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Mariotトークセッション

佐藤 こんばんは。面出さん、よろしくお願いします。

面出 こんばんは。よろしくお願いします。



佐藤 私は照明については全然専門ではなくて、今日お声掛け頂いて改めて光について少し意識をした次第です。
とかく面出さんのように、それから今日いらっしゃっている皆さんの中にも、光の専門家がいらっしゃると思うのですが、専門家ではない人間にとっては、光とか音とかというのはデザインをするときに、どちらかというと物が目に見えてきて意識がなかなか向かない。ですからどうしても後回しになる。
恥ずかしながら、光に対する意識を持ったのというのは、デザインの仕事をしてから。意識を強く持ち始めたのは意外と途中からです。
遅かったと言ってもいいと思います。
今日はまずはじめに、面出さんは専門の現場にいて、問題意識を沢山持たれているし、照明の世界では大問題が発生しているというウサワも聞いていて、その辺りからお聞きしたいなと思っています。


面出 今日は「光育(ヒカリイク)」というテーマで、佐藤卓さんとお話するということで楽しみに来たのですが、実はしっかりとしたシナリオはあまりないです。(笑)
ただ、いま佐藤さんが、「私は光について、照明についてはあまり専門家じゃないから」というふうに言われたのが非常に面白く思っています。
僕たちは、光とか照明というのはこうなんだと、いつもぶつぶつ言ったり、何かつくることばかり考えたりしているのですが、時々全く知らない世界の方から、「あなたたち、何してるんですか」と質問をされると、目からうろこが落ちて、「あー、なるほど。
おれたちの照明デザイン・照明業界というのは結構異常かもしれない」と思うことがあるんですよね。


佐藤 見えるものというのは、すべて光として見えてくるわけじゃないですか。
だから、パッケージデザインにしても、物が光として自分の中に入ってくるわけですよね。
私は光の専門家ではないので、そこに当たる照明が一体どういうものが使われていて、その照度がどのぐらいで、そういったことは全くわからない。けれども、光の中でどう見えるかということは常に考えています。


面出 そうですよね。卓さんがデザインされる、いろいろなプロダクトは、まずそれを写真に撮って何かを伝えることもあるから、スタジオライティング等ではどう見えるか。
また、デザインしたものが商品として売られるときに、どういうところ並べられて、どんなふうに見えるのか、それはものすごく気を使ってるはずですよね。


佐藤 私は広告の世界から仕事を始めました。
つまり、どちらかと言いますと、物をつくったりする世界よりも、物を伝える、出来上がっている物を人に届ける際に、どういう方法をとったらいいかというところから入りました。
今はテレビや雑誌・新聞などいろいろなメディアが世の中にあります。
そうすると、実は物に最初に出会うのではなく、印刷物とか、今だったら例えばネットの画面の中で出会うというほうが圧倒的に可能性が高いわけです。
例えば車が発売された際に、「こういう車が出たんだ」というのは、道を走っていて初めて「おお、この車は何だ」と思うようなことは殆どなく、大体、今は印刷物です。
撮影しなくてはならない。そうすると、どういう光の中にその物があったらその物らしくなるかということは、当然のように写真家と一緒に検討はしていたわけです。


面出 先ほど楽屋で、ガムのあのパッケージでも、これがどの位の光のところで置かれる商品なのか、ということを考えたとおっしゃってましたよね。

佐藤 やはり、コミュニケーションの中に光というのは、考えてみると、当たり前に存在します。
暗いところに置かれるものなのか、明るいところに置かれるものなのかというのは当然考えなければいけないわけで、考えないということは....


面出 製品として成り立たない。

佐藤 うん、あり得ないです。

面出 そういうことで、今日は1時間半ぐらいお話できるのですが、お互いに質問し合いながら進めたいと思います。



【 光の過食症にかかっていないか 】

面出 一番最初に、「いま照明の業界で問題になっていること。もしかしたら大問題が起きてる」というふうにおっしゃっていましたが、照明というのは、グラフィックデザインや建築から比較すると、昔から歴史があるようなデザイン分野ではない。
光のデザインなんて、まだ50年前くらいからです。
ですから、目まぐるしく価値観は変化しているし、昨今は随分、省エネで白熱球を使うなと言われています。

つい最近も、照明の見本市があったのですが、そこへ行くと全部、白熱球はないし、蛍光灯もほとんどなくて、95%ぐらいLEDと有機ELでした。
そこに照明業界の利益の集中があるのではないか。
または、今こういうご時世だから、何か活路を生み出そうとする新しい技術がどのように僕たちの生活を革新するか、というところに関心があると思います。


佐藤 専門家じゃないので本当にわからないのですが、白熱球ってもう使っちゃいけないのですか?
家にはまだ何個かあるのですが、白熱球はどうなるのですか?


面出 今日は、こんなに沢山の方にご来場頂けて驚いているのですが、「私は照明とか光とかそういう分野ではない」という方は手を挙げて頂けますか?---
「私は照明のことは細かく話されてもあまりわからない」という方がどの位おられるかによって話し方が少し変わると思います。

卓さんがおっしゃられている、白熱球がなくなってしまうのですかということですが、わかりやすく申し上げますと、何年か前に当時の首相が白熱球と蛍光灯を二つ持っている政府広報があったのを覚えておられますか?

佐藤 はい、はい。

面出 そして、ランプメーカーさんが、「弊社はもう何年か後には白熱球はつくりませんよ」と宣言されたのがその後です。
これは日本だけではなく世界中で言われています。
でも細かく説明しますと、エジソンが開発したナス形の普通電球はもうつくらないよ、生産ラインから外すよというのが本当のことで、白熱球というものも、クリプトン球という小さなものができたり、寿命も倍になっているハロゲン球というものができたり、いろんなふうに進化していますので、すべてが製造中止になってしまうということではないようです。

ただ、CO2の排出や地球環境を保護するのには、何か無駄なエネルギーを変換しなくてはならないという中で、家庭で使われている白熱球が全部蛍光灯になった場合にはこういう数値ですよという、非常にわかりやすい計算式が成り立ったので、ああいうことになっちゃったわけです。

佐藤 LEDとか新しい光源は耐久性もあるし、CO2の問題や環境にも良いということで、いま一気にふえてるわけですが、その辺で問題点はありますか?

面出 そうですね。少し前は、白熱球と蛍光灯どちらが良いですかと言っていましたが、もう白熱球とLEDになってきていますよね。
どのくらいの光を出す力を持っているかという発光効率を、照明ではlm/w
(ルーメン・パー・ワット)と言うのですが、今年あたりから、100lm/wを超えるLEDがどんどん出ているので、加速度的に、蛍光灯ではなくLEDという勢いになってきている。
計算式上では明らかにCO2の排出なり、いろいろな地球環境に優しいということにはなるので間違っていないと思うのですが、白熱球を何か全部嫌って、白熱球は使っちゃいけないんだ、みたいな、そういう話というのは非常に無意味な、無理な話だろうと思っています。

まず、初めに見直さなくてはいけないのは、蛍光灯となれ親しんで、これだけの明るさの既得権を得て、光の過食症にかかっていないかということです。
こうこうと明るい住まいや道路が必要かどうか。
高照度でくまなく照らされた道路、そんな非常識なことが地球のエネルギーを使って許せるはずがないでしょう。
だからもう少し、その明るさをトーンダウンしても困らないということを、みんなわからなくちゃいけないだろうと思いますね。


佐藤 蛍光灯がすごく広がったじゃないですか。
それは昭和に入ってから急速に広まったんですか?


面出 そうですね。もちろん戦後の話で、蛍光灯は昭和に入ってから普及しました。
特に日本の中で広まった、丸い、サークラインと言われるものが、力道山が空手チョップを打つような頃から家庭に入ってきました。


佐藤 ただ明るくするという、それが都市にものすごく蔓延しましたよね。
それに対して問題意識を持っている人は、白熱球へやわらかい暖かい光へ。そういう白熱球の優しい光がやっぱり大切なんじゃないかって思い始めたところに、LEDをはじめとする新しい光源が一気に流れ込んできたという感じがありますよね。


面出 江戸時代など、光の量が少ないとき、光に対して、いろいろな工夫を人々はしてきました。
ろうそく1本しかないとすると、そのろうそく1本のわずかな光を和紙などを使って上手く活用する工夫を、江戸時代の何百年も掛けてやってきた。
しかし、光の量を提示したときには、一気にこれだけ明るくなれば文句ないだろうと踏ん反り返っちゃったところに、「あかりをうまくデザインする」「工夫する」、ほんとに「あかりっていいな」と思えるような、そういう瞬間がだんだん消えていったと思います。
それを僕は「光の過食症」と言っています。


佐藤 面出さん、光害(こうがい)という言い方もされましたよね。光の害。

面出 環境省は光害(ひかりがい)と言うけれど、僕はそれより少し前に、環境省の言葉を知らなくて、光害(こうがい)と言っていました。
ライトポリューション(light pollution)。


佐藤 これだけ世の中を蛍光灯の光で照らされ、それに対する問題意識が持てないうちにLEDとか新しい光源が次々に流れ込んだ気がするのです。
だからある意味では、蛍光灯によって少し麻痺しているところへ新しい光源がなだれ込んできたので(---もちろん蛍光灯すべてがいけないと言っているわけではないのですが...)我々の生活環境で蛍光灯によって失ってきてしまった感覚がいっぱいあるように思うんですが、それを顧みずに新しい光源がなだれ込んできちゃったので、非常に合理的に、ただ明るくするというところへ新しい技術が利用され始めている、その危険性があるんじゃないかと、私は素人ながら思うのですが、如何ですか。


面出 そうですよね。どうしても、蛍光灯で認知したその明るさに対して、今度はLEDがそれをどうやってカバーしてくれるか、みたいな話になっています。
おかしいなと思うのですが、エジソンが開発した普通のナス形の電球に、蛍光灯をぐるぐるにしたものを入れて、「電球型の蛍光灯ができました」と言うと、みんなが喜ぶのです。
家庭の白熱球をはずして付け替えれば、「おお、明るいな。これでいいんだ」と。これを推奨しているわけです。
それと同じように、これを今度は、中にLEDがいっぱい入った電球を付け替えると同じ明るさが与えられますよということになってきた。

僕は、LEDというのは、蛍光灯とは、白熱球とは、そういうものと似て非なる、もっともっとこんなちっちゃな光源ですから、あれが分散して、わっと砂をまくようにすると、もっと違うことができたりすると思うのです。
僕は、LEDを使ったら、ほんとにわずかな光でも、「おっ、さすがLEDというのはこんなうまい光ができるんだな」という、従来にない工夫ができてくるのではないかと期待しているのですけどね。


佐藤 ちなみに、あの棒状の蛍光灯というのはこのままの状態を続けていきそうなのですか。

面出 棒状の蛍光灯にかわってLEDをずっとラインに並べて間接照明にするとか、いろいろなことが出てきています。
やはり棒状に発光するというのは発光効率が一番良いので、どこの地下鉄駅を見てもおわかりのように、そういうものはすぐには無くなっていかないと思いますね。

ただ、50年先、60年先、僕がもういなくなるぐらいのその頃には、「蛍光灯なんていうのがこの天井についていたよね。ああいう時代だったんだよ、あのころは。天井に照明なんかあったんだ」ということになっているかもしれない。
天井に照明がない。どこにあるかわからないけれど、机の上が光ってたり、この辺りが光ったり、服が光ったりして、天井から下を明るく均一に照らすということは非常識なことになる。
または外へ出ると、今は道に街路灯というのも立っていますよね。
実はあれは下にケーブル通して大変なのですが、今は、コンクリートの暗いグレーの路面を沢山の街路灯で照らしています。あれもなくなるかもしれない。


【 唾液を出して買っているか】

佐藤 コンビニって、ほとんどの人が利用するじゃないですか。
見上げると蛍光灯の本数すごいですよね。
ずらーっと何十本ついているのかわからないですが、狭いコンビニに、びしーっとついていてほとんど物に影がない。
おにぎりとかお弁当が置いてあるのですが、おにぎり、お弁当がもう記号ですよね。


面出 そうですね。

佐藤 いわゆる唾液を出してみんな買ってるかといつも思うのです。
おいしそうなものというのは普通、唾液を出して買うのだけれども、おにぎりという記号で買っているというように感じる。すごくおかしなこと。
記号で買って、そして唾液も出さずに食べてるかもしれない。
今、お話を聞いていて思ったのは、今のコンビニエンスストアの店内を記録しておいて、この時代の一番多く利用するお店はこんな光の中にこんなに大量に食べ物が置いてあったんですよということを100年後の人たちにちゃんと届ける。
もしかしたら100年後の人は、「これ、おいしいと思ったのかな、当時の人たちは」って思うかもしれないですね。


面出 びっくりするよね。
僕らは照明探偵団で海外に行くのですが、ストックホルムのコンビニは全部間接照明でした。


佐藤 そうですか。

面出 暖かい光で天井をふわーっと照らしています。
もちろん照度も低い。
日本のオフィス照明では750ルクスというJIS基準があるのですが、コンビニはほぼ倍ぐらいの1000ルクス1500ルクスという、均一な照度を競うようにしてここまで来た感じがします。
そして、それよりもっと倍、2000ルクス3000ルクスの光のドラッグストア等もあります。
そこでは、かっこいい商品だから買うのではなく、正札を見て買う。


佐藤 ほんとに物がどんどん記号化していって、その物の物性の魅力というものをちゃんと受け取って自分のものにしたいという気持ちに至らせていない。
とても危険といいますか、本来人が持っている、すごく細かなデリケートなニュアンスを受け取るセンサーが鈍くなりつつある気がします。

例えば旅先に行って自然の中に行ったりすると、そういう感覚がよみがえることってあると思います。
細かい質感みたいなものが自分の中にも入ってきて、またそれに対して気がつける自分が立ち上がるといいますか、ふだん眠っているソフトのスイッチが入るというような感じがあると思います。
コンビニを先ほどから例にさせて頂いておりますが、そういう感覚がどんどんどんどん眠ってしまい鈍くなってしまっている。
本当は持っているのだが、そのセンサーをかなり鈍らせちゃっている。
僕は、今の照明の、特に量販店の光とか場合によっては駅の光とか、そういうことがかなり感覚を鈍らせてるんじゃないかという気がすごくします。


面出 光は、その鈍っちゃっているんだということが当人にはわかり辛いですよね。
僕は光だけではなくて、例えば激辛食品。
どんどん辛くすると、みんなが飛びつくようにして、こんな辛いものを食えるとかって言ってる。そんな辛いだけというのは、ほんとはうまくないですよ。


佐藤 僕、昔、カラムーチョのパッケージデザインをしたことがありました。(笑)

面出 もちろん、辛いのはおいしいのですが、何か日本人って、もっと辛いぞ、もっと辛いぞと、どんどん刺激量の多いほうに引っ張られていきがちだと思うのです。

佐藤 全くそうですね。

面出 音も難聴になるんじゃないかと思うぐらいに、ヘッドフォンつけて、個人的にガンガンやるわけじゃないですか。
音のすごい強い刺激、味覚の刺激、そういう刺激量が20世紀からもうウナギ登りになっている。
特に私たち日本人にはそういうことが多くて、光でも極限になっている。
だけども、「明る過ぎるよね」というふうに声を大きくして言ってみても、「うーん、そうかなぁ。明る過ぎるかなぁ。」という答えが返ってくる。


佐藤 いや、ほんとに鈍っちゃいますよね。

面出 だから、ストックホルムの探偵団が東京へ来ると、「わーっ、東京のコンビニというのは、どうしてこんなまぶしい光の中で、こんな光を出すの」という話になります。
急に江戸時代まで戻るわけにはいかないけれども、せめて大正、明治ぐらいに戻って、それでも豊かな生活だとか、気持ちのいい生活だとか、夫婦の会話、親子の会話、わずかな光の中ではぐくまれるんだということがわかってくると、CO2が問題だから白熱球をやめて蛍光灯にしましょう、効率のいいものにしましょうというものとは、少しまた違う方向に行くかなと思います。


佐藤 コンビニエンスストアで、例えば1軒、照度を落として、やわらかい光で暗くした店舗が仮に登場したとするじゃないですか。
そうすると、寂しいとか暗いということがネガティブにとらえられて、「暗い」というのは「よくない」という概念にすぐ結びつく。


面出 ありますね。一度、コンビニエンスストアが、せーので、今1500ルクスあるのを、3分の1の500ルクス以上出しちゃいけません、それでもみんながちゃんと買ってくれるから安心してそうしましょうと、そういうことを宣言すれば、全然問題ないと思いますね。

佐藤 そうですね。そして、単調に暗くするだけではなくて、例えばお弁当とか食べるものはおいしそうに見える照明にちゃんとする。
陰影というものがなければやっぱり食べ物なんて絶対おいしそうには見えないわけですよね。


面出 そうですね。しかし最近は、コンビニももちろん少しずつ変わってきてるし、既に、色温度の低い、暖かい色に変わっているコンビニもあります。
しかしながら、照度はあまり落ちていないのですよ。


佐藤 あっ、そうですか。

面出 色温度を暖かい白熱色に近い形にしたんだから、本当は照度を落として、うちはこういうことですよというふうに、胸張って頑張ってくれればいいのだけれど、なかなか難しいのでしょうか...。
同じように、僕らの体、頭、意識の中にしみついてしまった光メタボ、光の過食症みたいなものというのは簡単にぬぐい去れない。